昭和43年7月6日 朝の御理解
御理解78節の最後のところ、「無事達者で子孫も続き、身代もでき、一年勝り代勝りのおかげを受けることができる」ここのところを願わない者はないと思うですね。無事達者と、子孫も続き、しかもそれが身代もできと。同時に今年よりも来年というように、一年勝り、代勝りのおかげを受けることができると。ここんところのおかげを頂きたい、また、そこを願わん者はなかろうとこう思うんですね。
そこで、この初めから一遍通り読んでみて、その一年勝り代勝りと、ね、身代もできる。そういうおかげを頂くにはこういうような信心がいるということを教えておられるわけですね。
「神の機感にかのうた氏子が少ない。身代と人間と達者とがそろうて三代続いたら、家柄一筋となってこれが神の機感にかのうたのじゃ。神の機感にかなわぬと身代もあり力もあるがまめにない。まめで賢うても身代をみたすことがある。また大切なものが死んで、身代を残して子孫を絶ち」ね、断絶と書いて。「子孫をきらしてしまう。神のおかげを知らぬから互い違いになってくる。信心して神の大恩を知れば、無事達者で子孫も続き、身代もでき、一年勝り代勝りのおかげを受けることができる」とこう。第一、神の機感にかのうた氏子が少ない。
そこで私どもはその、少ないと言われるその、ひとつ氏子にお取り立てを願わなきゃいけんのですね。ですから金光様の信者の全てが、ね、例えばどれだけの人間が、世の中にあるか分かりませんけれども、金光様のご信心を頂いておるという者が、何人あるか。まあ何人て、どのくらいあるか、ね。ですから金光様のご信心を頂いておる者全てが氏子、そういう氏子が神の機感にかのうた氏子が少ないと仰るが、その機感にかのうた氏子にならせて頂けれる道を教えて頂いておるのですから、金光様のご信心を頂いておる者はみんな、そうでなからなければならんのだけれども、そうでない。
そこで私は思う、ね。まあ金光様のご信者というと少し大きい、だいたい大きいことはないですよね。けれども、まあせめてね、合楽に御神縁を頂いておる人たちはひとつその少ない方の氏子にどうでもならせてもらおうという願いを持たなければいけん。どうでしょうか、皆さん。私どもの場合はもうちっと綿密に、御祈念の中に申しておるような感じがしますね。一年勝り代勝りと言うて。私共のは日勝り月勝り、と言うて日勝り月勝りを願っている。日勝り月勝り年勝り代勝りのおおみかげを頂かせて下さいと言うて願う。
まあ願いよらん人でも、ひとつ今日から願わにゃいけません、ね。本当ですよ、日勝り月勝り年勝り代勝りのおかげを頂かせて下さい。それには、どうぞ一番初めの、神の機感にかのうた氏子が少ないと仰るのですから、ね。久留米市なら久留米市内にどれだけの人間が、まあ例えば千人なら千人の人間がおるとするならです、金光様のご信心を頂いておる者が、それのうちの、なら100分の1です、もおらないくらいでしょう、ね。ですからその100分の1とも千分の1かも分からない、そういう本当にわずかばかりのお道の信者がです、ね、みんなひとつ、神の機感にかのうた氏子。言わば、そういう氏子が神の機感にかのうた氏子が少ないと仰せられる、少ない氏子にならにゃいかん。少ない方の側じゃない多い方の氏子であったら、もう信心のなかも同じこと、ね。そこで、神の機感に、神の機感というのは、神の気心、ね。神様のお心に、言わばかのうた氏子。最近、私が申しておりますように、必ずしも立派な人間を目指すことはいらん。
だからどうぞよい信者、よい信氏子にはならせて頂かにゃいかん、ね。そのよい氏子を目指さなければいけない、ね。そうしていくうちにはです、ね、人間もだんだんできてくる、立派になってくる、よい氏子を目指して頂きゃ、ね。ここには「三代続いたら、家柄一筋となって」とこう言うておられるのでございますから、ね、これは何かいかにも難しいようにあるですね。家柄、三代も続かにゃいかんのだから、まあなかなか容易なこっちゃないようにありますけれども。
そんなこっちゃないです。問題はですね、私共が、まあ言うならば初代ですかね、信心の初代です。ですから、私共が言わば、その神の機感にかのうた氏子になっておればです、子供がね、かのうた氏子になっていかないはずがない。孫もついて来る。ところがその、初代があやふや。機感にかのうた氏子が少ない。そこでここで問題になることなんですけれども、そら神様の機感にかのうた氏子ということはもう大変難しいように、まあ思うのです。まあまた、難しいです。
けれどもね、ここんところをまあ言うなら、完璧とでも申しましょうかね。完璧な信者氏子にならなければということではなくて、それを目指すと、そこをしかも日々目指すということ。
昨日、壮年会。壮年会で、私半ばから、聞かせてもらったんですけれども、秋永先生が話しておられます。もう本当に18年間もここに通うてきよるけれども、振り返ってみるとひとつも自分が変わって、18年前の自分とひとつも変わっていない。
そう言うてみればですね、ここで並んでなさる、やはりもう長年続いておられる方達ばっかりですけれども、本当にそげん変わっとりゃせんですわなあ。だんだん年をとってきて、まあじいさんになったり、おばあさんになったりしとるだけのことで、ね、それはわきから見るとですね、わきから見ると、まあ変わってますよ。けれども自分自身はひとつも変わってないように思う。どれだけ変わっとるでしょうか。10年前と、言わば信心をしなかった、信心を始めた頃と今はどのくらい変わっておるだろうか、ね。
けれどもね、変わっとらんけれどもしかし、おかげを受けておるという事実があるじゃないか、うん。枝葉のところは変わっておるようだけれども、肝心要のところはいっちょんも変わっとらん。どうでしょうか、皆さん。いいや、私はこれだけ変わったと言うほどに改まっておるということが言えるだろうか。私はそう言われてみて、ほんに自分自身もいっちょん変わっとらんなあとこう思うんです。
ただ、変わったと言うなら神様をだんだん大事にするようになったことだけは事実である。私は今日、控えに御祈念前に出てまいりましてから、必ず、金光様の、三代金光様のお写真がそこにかかげてございますから、お礼を申し上げる。もうこれは取次者の鏡であり、もう本当に金光様を神習わして頂こうと一生懸命、まあ努めておるわけです。どうぞ今日もあなたの御信心を真似方だけでも神習わして下さいと言うて願うわけです。
しかし今日は私、願う内容がですね、どうでもこれは金光様、あなたの魂をね、私の心の上にね、ひとつ乗り移って頂くようなおかげを頂きたいという願いをさして頂いた。
金光様、とてもとても形の真似ができたぐらいなこっちゃできません。どうぞ、あなたのご精神、あなたの魂、ね。魂が私の心の上に宿って頂くようなおかげを頂かして下され、まあとてもそれは無理難題な願いであるに違いはございませんけれえども、ね。
今日は皆さんに分かってもらいたいところはここのところです、ね。金光様のご精神が金光様の魂が私の心に宿って頂くというようなことはできませんでしょうけれども切実にです、本当に金光様のあのような御信心が、お心が、お魂が私の心の中にですね、宿られたらどんなに有り難いことだろう、どんなに有り難いことになってくるだろう。どんなに沢山の人が助かってくることであろうと、思うたらです、それはともてできないことであろうけれども、願わなければおられないという実感だ、ね。
そういうようにです、祈るとか願うとか思うという内容がですね、なら18年間の間に変わってきたことだけは事実なのだ。自分自身は改まりもできておらんけれども、ね。人間は変わっちゃいないけれども、振り返ってみりゃ変わっていないけれども、ね。
そういう願いを皆さんが持っておられるから18年間続いてきたんだ。または、10年間、または5年間ね。信心の程度、程度。その始められた、皆が18年間というわけじゃないですけれど、秋永先生なんかは、言うなら18年間続いてきたわけなんです。
変わってはいない、けれどもそういう願いだけは持ち続けてきた。そして、事ある度にです、ね、その願うことの内容がです、どうぞ、金光様、今日一日あなたを神習わして下さい、取次者の鏡であり、手本であるあなたのあり方、せめて真似方だけなりともさして下さいと言うて、願っておった私がです、今日はね、昨日秋永先生、そのことを言われてから、ほんにそうだなあと思うたら、こらこれだけの願いじゃいかんと。真似方じゃいかん。問題はその精神が、お魂が、私の心に宿ってもらい、乗り移ってもらうようなおかげを頂きたいと願うこと切である、ね。
金光様のお写真のあの枠の辺りと思うところにカチッとおいさみがあった。よし、聞き届けたと仰ったわけでもあるまい、けれどもそういうね、あの切実なる願いをね、神様が喜んで下さったんだと私は思う、ね。んなら、これは私だけじゃないです、皆さんが私と一緒にこの信心について来て下さった方達の内容、人間は変わってはいない、大した改まりもできてはいない。
けれどもね、そういう、言うならば、日勝り月勝り年勝り代勝りのですね、おかげを頂きたいという願いはもうこりゃ誰しも同じこと。私はそう思う、ね。と同時にです、なら願うこともです、それだけ、やはり(主唱?)なもの、ね。それだけ、本当なことが思え願えれるようになってきた、ね。
その現われが最近の皆さんの信心ですよ。変わったと言やあ、そういうふうに形の上に変わってきただけでしょう、ね。朝の御祈念なんかでも、今まで、やはり5時の御祈念に、もう御理解に間に合いさえすりゃよかっちゅうぐらいで参っておった人が、まあだいたり、ね、ほとんどだった。ついこの頃までそうじゃった。それがどうですか、ね。もう5時の御祈念にはここにこうしていっぱいちゃんともう集まっておられる。
いや、5時の御祈念どころかもう4時の私の御祈念にですら、もうある程度の人達が集まっておられる、ね。昼の特別御祈念があるといやあ、ね、またあんなに沢山の人達が集まってくる、ね。それはどういうことかと言うとですね、私のいわゆる金光様にお願いさして頂いておる、どうぞ、真似方だけでもさして下さい、ね。神習わして下さいと、例えば形の真似からでも入らして頂いて、ね。
そして、例えばできるできんは、もう別としましてです、これは切実に私が子が親に願っておることがです、ね。どうぞ、親孝行な私にして下さいと願っておる。親としてこんなにうれしいことがあろうかと私は思う。親孝行はもしできておらん。けれどもです、親孝行な私になりたいという切なる願い。そういう切なる願いがですね、そういう切なる願いが一年一年、だんだん本当なことになってきたということなんです。
信心さして頂くにしたがって、だんだん神様を粗末にしてくる人はないでしょう。だんだん大事にしてこられる、ね、して最近、私が言っておるように、どうぞ、ね、よい信者氏子にお取立て下さいと。ということは、どうぞ良い子にならせて下さい、親孝行な私にならせて下さいということなんだ。しかももうそれだけではすまん。どうぞ、金光様、あなたのお魂をね、私の心に宿らして下さい。
そりゃいかに神様でもできなさるまい、魂、その一人一人がもっておる、魂の入れ替えっちゅうことはなかなかできまいけれどもです、ね。(みっつご?)の魂と言うくらいですからできまいけれども、それを願わなければおられない信心に私共が成長、お育てを頂いておるということ、ね。
ですからですね、皆さん願いというものをね、昨日もここでも秋永先生が言ってるんですよ。最近はどうも、合楽でおかげを頂いておったらもう限りなくおかげが頂けるぞと。もうおかげのことを本当に願えれるような、今まではおかげは願うということよりも、もうまあ何ちゅうかね、まあ信心が先、修行が先と言ったような、言い方であったけれども、最近は親先生のお話を頂いておると、結構、本当におかげがこら頂けるぞと。
これは信心ができとらんでも願っていきゃ、いきよるうちにおかげが受けられるぞというような感じがするという意味のことを言うておられます。そういやあそうでもあるように思うですね。確かに私は、やはりあの、信心を語っております、おかげのことはあんまり語りません。けれどもその中に、ね、確かに、願ってそういうものが強くなってきたように思う。
それはご利益主義の意味じゃない。ここはまあ、何と言うて説明していいか分からんけれども、言わば皆さんの信心が10年または10何年間続いてきてですね、だいたい、もうだんだんおかげが、頂いたおかげを落とさんですむようになってきたから、もういつまでも、まあおかげの遠慮をせずにです、おかげを願わにゃいけんと、願わしてもらえれることになってきたのではないでしょうかね。
いわゆる一年勝り代勝りのおかげを受けることができるところの受けものというものがだんだん、こう認められてきたというのでしょうかね。今までは、その代勝り年勝りのおかげの頂けれる受けものを持ってなかった。からと言うてその、変わっておらんけれども、ただ、ね、育てられてきておることは自分の思いが育ってきた。同時にすることが、例えば信心に現していくことが変わってきた、ね。
とても朝参りというなんてん、福岡辺りからできるこっちゃないと思うておった秋永先生が昨日でちょうど、半年間続いたとこう。しかも、夫婦で続いた。しかも昼の御祈念にもお参りできるようにおかげを頂いた、ね。できんはずのところができてきた。そういうところが変わってきたわけです、ね。この78節の中には、ね、いよいよ神の機感にかのうた氏子としての、信心が教えてございますね。
神のおかげを知らぬから互い違いになってくるというような、神のおかげ、自分の信心は、ね、自分の、自分は変わってはいないけれども、ね、神のおかげを知らんからではなくて、神のおかげを知ってきた。次には、神の大恩を知れば無事達者でとこう、ね。いわゆる神のおかげも分かってきた、神様のおかげも分かってきた。10何年間の、例えば信心をさして頂いておるうちにです、ね。
確かにおかげは頂かれるということをですね、様々な場合にそのおかげを分かってきた。同時に神様の大恩を分かってきた、ね。それが分かってくるに従って、例えば願いの内容も形に表されることも変わってきた、ね。そこで、そういう(さっち?)に例えば今のような信心がです、だんだん続いておれば、私は言わば一番初めに言う、少ない氏子に私はならして頂けれると思うです、ね。
これがでけた、あれがでけたから神の機感にかなうのではない。そういうように、本当に親孝行がしたい、神様に喜んで頂く氏子になりたいという切実な願い。そういう願いが切実に立てられる。おかげが頂きたいというのが切実だったのがです、ね。神様のお心にかないたい、ね、よい氏子にお取立て頂きたいというような、願いが強うなってきたと、ね。そこにですね、例えば神様がおかげを下さっても、ね。そのよい氏子がもう、それを落としてしまうようなことは、まあだんだんその危険性がなくなってきたわけなんである。
●私は昨夜、遅う皆さんが帰る時に、手洗いの方に皆さんを送って行ってから、ふと思い出したんです。はあ今朝から私、お夢頂いておった。昨日の朝です。忘れておった。したらあの手洗いの前に立ってから、はあ、ほんに今朝方お夢頂いてから、泥棒の入っとる夢頂きました。それが私が手洗いの所にその(ゆうべ?)下り立った所へ、あの泥棒が立ってるんです。泥棒というか、見るからに泥棒という感じです。ひげはぼうぼうとこう生やしてですね、大きなリュックん中にそのいっぱいそのここで盗った物を入れとるらしいんです。
それがちょっと、いっぱい入れてござるとばってんそれが軽かござるとです。それを、そのリュックをかろうとる、(?)のごとしてから。そして、まあ小学校の一年生か二年生くらいな、この男の子が一人おります。それがちょうどあの手洗いの尺手をとってからお水を頂こうとしよる。そして、ランドセルをこの踏み台の所にこう置いとるです。それで私が出て来てから、出て来たもんだから、びっくりしてから逃げ出したわけです。
はあ、あんな重たい、大きなもんかろうてから、重かろうと、それが軽いごたるふうですもん。走って逃げるぐらい。そいで私はその、追いかけるという意味じゃなかったけれども、外へ出てからしたところがもう、こうバス通りの方に出てから、そのバスの停留場とそこの真ん中の所らへんにもう行っとるです、子供ん手ひいてから。
それで私はですね、子供がそのランドセルを忘れとるのを、それをああ、これば忘れとるがちゅうて一生懸命、それを(おらう?)とがですね、ぞろぞろぞろぞろちゅうてこれば見よるとですもん。それで、向こうではその、さあ泥棒捕まえてくれっち言われるふうに思うたらしくて、どんどん逃げていくとです。
私はその名前が分からんけん、泥棒さん泥棒さんと(いういみなんでん?)、忘れとるがのあんた、忘れ物しとるよと言うわけなんです。ところがその、ランドセルなんかを開けてみたところがです、こうあの、ビニールの袋に入ったアンパンか何かのパンがですね、5つ6つ入ってる。私はそれを見たらもう悲しゅうなってですね、もうあの子供が4、5日間食べるおやつがこれに入れてあったのに、もう悲しゅうてたまらんとです。
それでいよいよ泥棒さん泥棒さん(笑)、忘れとるがちゅってからその(?)よるばってん私が言うとじゃろうか、早う逃げていくと、ね。そして、私がこちらへ、もうとうとうその、泥棒、その逃げてしもうたもんですから、引き上げてきよったら、その長い廊下の向こうの方からあの、吉井の「杉きよこ」さんね、「杉かんぞう」さんの奥さんがやってきよんなさいますもん。
そしてから、小さい何かもう手のひらにのせてから持っていきよりますもん。今あの裏で(ざっしょう?)ば頂きよりましたっち。あの、あれは(ざっしょ?)っていうことは(ざっしょ?)のもちとか何とか申しますでしょう。何かそのそのことらしいんです。(ざっしょう?)ば頂きよりましたら、その中からこげなもんが出てきましたちゅってから、きないですね、こんだけばかりのお地蔵さんが出てきたっちゅうわけ、ね。
と言うような、まあ何とも分からんようなお夢であったけれども、それが私、分からなかったんですよ、そのお夢を頂いてから。分からんままに忘れておった、ね。ところが、夕べ、私はほんに夕べここに泥棒が入ったとほんに夢頂いとったと言うてからです、あれはほんにどういうことじゃったじゃろうかと思うて、思わせて頂いたことはですね、ようはあの、お道のお説教を頂きますと、おかげ泥棒というね、あのお話がありますよ、ね。
おかげだけ頂いて信心をやめてしまうと言うのです、ね。確かにそれこそ、医者の見離した病人が助かった。どうにもできない問題がおかげ頂いた。そして、何かの調子に信心が薄うなって、いやあもう忘れやしませんて言いよるとが、ちゃんと忘れてしもてから、もうぱったり信心をやめてしまうなら。そういうのをおかげ泥棒とこう言われておる、昔から。
ははあ、これはおかげ泥棒のことだなあと私は思うた、ね。私はそういうおかげ泥棒と言うと言葉が悪いですけれどもね、それこそ、泥棒さん泥棒さん忘れ物しとりゃせんの。これを子供のおやつまでもここに忘れて。もうそればもう本当に走って追いかけて行って、持って行ってやりたい思いがする。それがやれなかったら、私は途端に悲しゅうなった。これがそのまま、神様のお心じゃなかろうかと私は思うのです、ね。
私は今日は皆さんに聞いて頂いたのも、ね、私共がおかげ泥棒にさえならずにですね、そして、信心がこうやって、ね、さあ自分自身とようと清めてみんとです、やっぱり(みつご?)の魂、10年前にあった汚い心がやっぱり現在もあるということ。ほんなこっちゃ秋永先生に言われてみてから、ほんなことね、いっちょん変わっとらんのっちゅうごとある。
けれどもだんだん、日々信心の稽古をさして頂きよるとです、ね。例えばその、実感としてその、思うその事柄が変わっていきよる、ね。本当にこういう汚い浅ましい私。それでもおかげを受けておる、その勿体なさがです、ね。本当に信心が分かりたい、本当の信者になりたい、どうぞ神様、よい信者氏子にお取立て下さいというような願いが、そういう願いができるようになってきた、ね。
今のお夢の中に、「杉きよこ」さん、それからこの(ざっしょ?)をもろうたら、ね、こういう小さいお地蔵さんが出てきたことなんかは、また、こう大変意味があるのです。地蔵さんというのは、地の蔵と書いてあるでしょうが、ね。しかもきないで。例えばあの杉さんなんかは、まあおかげ泥棒になるかならないかの境のところにまああるような感じがするんですね。
昔はこの総代さんまで勤めた人です、ね。もうこの頃から、御造営が始まって初めてその「杉かんぞう」さんがここに参ってみえられましてですね、もうそれこそもう沢山なお供えをいろいろ取り揃えてから、何のために見えたかしらんけれども、みえられた。そして、もう50になるが、秋永先生と友達です。けれどもこれから先、もう生きるですね、楽しみではなくてから、生きがいをなくしたっち言われました、本当に。もう生きがいが。
そんならこげな有り難い信心をもう一遍復活したらどうのと言いたいけれども、それが耳に入らん模様でした。私は本当に悲しいまでに思うた。けれども仕方がないでしょうが、ね。押し込んでやるわけにはいかんとです、ね。ですから、私共がです、そういうようなことにならんおかげさえ頂いてです、ね。言わば思うことが神様の心にかなうような思い方、できなくてもですよ、ね。
本当によい信者氏子にお取立て頂きたい。数少ないところの神の機感にかのうた氏子に私共がならなければというような願いをね、私共が持たして頂けれるようになる、そういう信心がです、ね。続けられていくならば、もちろん、おかげは日勝り月勝りと言うても分からんかもしれんけども、年勝り代勝りという、代勝りと言うてもまだ次の代になってないから分からんですけどね、ね。
去年よりも今年というように、おかげを受けていくだろう、ね。そういうおかげがいよいよ、代勝りのおかげの土台になっていくのだ、ね。
最近、合楽では、そういう、例えばおかげ、ね。おかげをもう願ってもええ。願わんとおかしい。けれどもそれは何故かと言うと、ね。もうここに5年なり10年なり、またはなら厳密に初めからの人達なら18年間という間をです、ね、どんなおかげを頂いても、もう落とさんですむだけのです、信心がだんだんできてきたから、もうおかげの方のこと。おかげは受け徳受け勝ちと言ったようなお話が最近頂けるようになったという感じがいたします、ね。
まあ言うならばです、ね、おかげ泥棒にだけはなってはならん、ね。そしてその泥棒んとがですね、こうやって何か盗っていきよるごとある。それはおかげだけ頂いて、それはね、ほんな実はいっちょん取っとらん。何か箱の空んごたっとばいっぱい押し込んどるというような感じ、軽い、ね。
泥棒じゃなくて本当にそれを自分のものにして、子供に伝えられるような信心頂きゃあです、ね、親の代よりも子の代に、この子にも伝わっていこうのに、神様は悲しいまでにです、後を追いかけて行ってでも、渡してやりたいようなものを感じておられてもです、ね。お互いがおかげ泥棒になったら、もうおしまい。このようにして信心が続けられていきよる、ね。
その続けられていきよるということがです、私は数少ない氏子にお取立て、これはだから私が申しましたように、金光様のご信者とこう申しましたけれど、ね、私は、まあそういうわけにもいかんから、今日はまた合楽のご信者とこう申しました、ね。何故って合楽のご信者の場合、信心が続いてさえおればです、私と共にね、信心が育っていきよるということ、ね。
私が4時の御祈念を始めるようになりゃ4時にでも、ね。私はそういうようなきちっとした信心を少しできてくるようになりゃ、なら皆さんの信心もきちっと、もう5時にはこれだけの人が集まっておると。と言うようにですね、確かにそれ、私と共に信心が変わってさえいきよりゃです、必ず年勝り代勝りのですね、おかげが約束されるということをです、思う。
同時に、私は昨日、壮年部会でこれを実感したことでございますけれども、なかなかね、お話を頂いてそのお話の焦点というものがここが分かっ、ここを今日の御理解は分からにゃいかんというところがね、反れておるところに驚きますですよ。どうぞあの、夕べの御理解を頂いてですね、あのあれに、皆さん、答えを出してご覧なさい。夕べの御理解、ね。その答えを私、夕べ、壮年会の方たちに問うてみた。
それぞれにやっぱり、その大事なところつかんではおるけれども、もういよいよのところがつかめてない。だからこれは私のご理解はあまりに噛んで含めるようにと皆から言われるんですけれども、もっと噛んで含めるように、そこまで答えを出してやらなければいけんのじゃないだろうかと私が思うたぐらい、ね。
どうぞその、皆さんがしっかり、御理解を頂かれて、今日の御理解の頂きどころはどこじゃったか。そこだけはですね、間違えないように頂けれる稽古をなさいませんとね、大意を反れた枝葉のところになってくる。せっかくの例えば頂く御教えがね。それでは惜しいのです。どうぞ今日の御理解の中からもです、ね、今日の御理解の言わば中心とでも言う、ね、どこであったか。そこんところをようく極めて、はあそうだなあというその思い込みをいよいよ、強うしていって頂きたいと思うのです、どうぞ。
明渡真